諏訪大社と御柱祭

諏訪大社上社本宮風景
諏訪大社上社本宮

諏訪といえば諏訪大社というぐらい諏訪の歴史と諏訪大社というのは密接な関係があります。

諏訪大社とは諏訪湖周辺にある4つの神社の総称で、もともとは諏訪湖のほとりにあったと言われています。
その頃は今とは比べ物にならないほど諏訪湖が大きく、今の諏訪市街一帯がその頃の諏訪湖だったと考えられています。

 

諏訪大社は、正確にはいつ出来たかもわからないほど古い神社で、古事記に記載されている内容からその頃が始まりと考えられています。
諏訪大社では古事記に登場する建御名方命(タケミナカタノミコト)が祀られています。最初に相撲をとった神様です。

 

諏訪大社は上社と下社に分かれ、上社には本宮と前宮、下社には春宮と秋宮の2つずつの神社があります。
上社に祀られているのがタケミナカタ、そして下社に祀られているのはタケミナカタの妻である八坂刀売命(ヤサカトメノミコト)です。

 

上社と下社は対岸に位置していて、2人が会うのには湖を渡らなければなりません。
冬の間、諏訪湖が凍りついた時に、氷が割れて迫り上がり道のようになります。
これを御神渡り(おみわたり)といって、タケミナカタがヤサカトメの元へ渡ったとして諏訪大社では古くから神事として吉兆を占っていたそうです。

 

その頃から諏訪地方は、諏訪大社の神主である諏訪氏が治めて来ました。
諏訪氏は源氏との付き合いを深くした所からタケミナカタは武の神として諏訪明神とも呼ばれ武士階級の人を中心に信仰が広がっていき、
源頼朝や後の鎌倉幕府を継いだ北条氏など時の権力者からの支持を受け、元寇での神風を吹かせたのも諏訪明神の功績として、
さらに日本中にお諏訪様信仰が広がり諏訪神社の分社が出来ていきました。現在ではその数は1万社を超えるとされています。

 

御柱祭、上社山出し祭の「木落し」の見せ場

諏訪大社といえば7年に一度行われる御柱祭があります。日本三大奇祭の一つとされています。
山の中から切り出したモミの木の大木を、何千人もの人の手で引いてきて各神社に4本ずつ、合計16本の柱を立てるという祭事です。
古くは平安時代から行われ、織田信長が焼き討ちをしたときも、戦時中も継続されていたというので驚きです。

 

御柱の工程はいくつかに分かれています。
山から里まで木を運んでくる「山出し祭」、さらに神社まで引いていき柱として立て上げる「里曳き祭」
それぞれに見せ場があり、地元の企業ではだいたい会社が休みになり、御柱が通る付近の家では家を上げて料理を振る舞ったりします。
とても勇壮なお祭りなのでぜひ一度見て欲しく思います。

 

 

 

 諏訪の戦国時代

葛飾北斎 富嶽三十六景 信州 諏訪湖
葛飾北斎 「富嶽三十六景 信州諏訪湖」: 江戸時代の諏訪湖の風景です。富士山の手前には浮城と呼ばれた高島城が描かれています。

戦国時代に入ると甲斐(現在の甲府)の武田信玄によって諏訪氏は攻め落とされ、諏訪一帯は武田信玄の領地となります。
武田信玄も諏訪大社に戦勝祈願をしたりと軍神として諏訪大社を崇敬していたようです。
武田信玄は遺言で、3年間自分の死を隠せと言って諏訪湖に埋葬させたという伝承もあります。
実際には武田信玄の墓所とされる場所はたくさんあり、死を隠したことからどれが本物かもわかりませんが
それこそが武田信玄の周到さを納得させるエピソードといえるかもしれません。

 

諏訪地方は武田信玄と諏訪氏の姫であった諏訪御料人(大河ドラマ「風林火山」の由布姫)との間に生まれた四男の諏訪勝頼が諏訪氏を継ぎ、領土を受け持っていました。勝頼の名前にある”頼”の字は諏訪家のゆかりの字であり、最初から諏訪を任せるつもりで育てられていたようです。

 

しかし武田信玄の長男が信玄と対立し自害することになり、武田信玄が病に倒れると、武田家の後継者問題から四男であるにもかかわらず諏訪勝頼は武田家を預かることになり、武田勝頼となります。
信玄の死後、武田家を率いることになった武田勝頼ですが、諏訪の人間として育った勝頼は、武田家のもともとの家臣達との折り合いが悪く、寝返り工作によって、織田信長と徳川家康の連合軍を相手に長篠の戦いに破れたのち、織田軍の甲州征伐で追い詰められ自害することになり、武田家は滅亡します。

 

織田信長はこの甲州征伐のときに、武田信玄が崇拝していた諏訪大社を焼き討ちし、諏訪大社の上社本宮は燃え落ちてしまいました。
信長はその燃え落ちた上社本宮のすぐ側にある法華寺にしばらく滞在していましたが、ここで事件が起こります。
織田信長の家臣である、明智光秀のちょっとした発言が信長の逆鱗に触れ、何度も欄干に頭を打ち付けられるほどの事態になりました。
その恨みが明智光秀に本能寺の変を起こさせたのではとも言われています。この法華寺の事件から2ヶ月後、織田信長は明智光秀に裏切られ、本能寺で自害することになります。

 

その後は諏訪氏の中で、諏訪大社の神主として残っていた諏訪頼忠が諏訪氏の家督を継ぎ、徳川家康の元、諏訪を治めた形になります。
最終的に諏訪を治めることになった、この諏訪頼忠は諏訪大社の神主として、武田信玄の戦勝祈願の儀を行ったり、織田信長の諏訪大社焼き討ちにあったりしていたと考えると歴史とは面白いものかもしれません。

 

徳川家康は焼けてしまった諏訪大社の復興に尽力し、神主である諏訪氏も手厚く保護したといいます。
それ以降の徳川家康がどうなったかはご存知のとおりです。

軍神タケミナカタを祀る諏訪大社に対しての織田信長と徳川家康の2人の行動と後の結果の対比もなかなか面白いと思います。
人に歴史ありと言いますが土地にも歴史があります。諏訪は歴史の舞台として見ても興味深い土地であるかもしれません。

 

 

 

 その後の諏訪の歴史と今

江戸時代になると諏訪湖周辺では中山道と甲州街道(国道20号線)の交わる宿場町としての下諏訪宿の温泉街として栄えました。
当時は峠越えが大変なところに温泉のある宿場町は珍しく重宝されたようです。

明治時代には岡谷の養蚕による生糸の一大産地として、
そして昭和に入ると諏訪精工舎(現在のセイコーエプソン)を中心として腕時計、オルゴール、カメラなどの精密機械の生産地として栄え、時計産業の世界的な産地であり高原風景の似ているスイスにあやかって「東洋のスイス」と呼ばれました。
また、諏訪湖や白樺高原や蓼科高原などの観光地化も進みました。

今でも多くの観光客が訪れ、また精密加工の企業が多く根付いています。高原地域は農産地としても有名で、観光業、工業、農業の3つの柱を中心に経済が回っています。

 

 

 諏訪地方の名産品

寒天を干す風景

八ヶ岳の麓である高原地帯は高原野菜の農地として優秀な土地で、原村はレタスやセロリなどの高原野菜の産地として有名です。特にセロリは生産量日本一の産地として知られています。

富士見高原は、信州そばの産地として、また近年ではブルーベリーやルバーブなどでも有名で、道の駅などではそれらを加工したジャムなども売っています。また富士見高原で取れた野菜を生かしたカゴメの野菜ジュースの加工工場もあります。

 

茅野は昔から寒天づくりの産地として有名で、機械産ではない天然の角寒天の生産では日本一を誇ります。

 

岡谷はもともと天竜川から遡上してきたうなぎの産地であり、今でもたくさんのうなぎ屋があり、うなぎの町として有名です。
上諏訪、下諏訪は温泉の宿場町として栄えてきた歴史があり、今でも多くの温泉旅館やホテルがあります。

また諏訪地域全体としても信州味噌の産地として発展してきました。

 

諏訪は歴史、文化、産地としても多くの魅力があり、知るほどに面白い土地ではないかなと思います。

諏訪は映画のロケ地などでも有名で、映画「いま、会いにゆきます」の舞台になったり、他の多くの映画やドラマのロケ地としても使われています。
他にも宮崎駿監督の別荘が富士見町にあることから、映画もののけ姫の創作にも諏訪の文化や地名などがたくさん使われています。
また宮崎監督の引退作品である風立ちぬでも富士見高原病院が舞台に使われていたりします。
最近では、大ヒットとなったアニメーション映画「君の名は」に登場する糸守湖のモデルとなっていたりします。

まだまだ多くの魅力がつまった諏訪をぜひ知ってほしいと思います。